安易に触れるな

「安易に触れるな」

この言葉の意味をいつ、誰から言われるかで受け取り方は全然変わってくるし、言葉の重みに気付けるか否かも大きく変わると思う。手技療法を生業とする人間であれば絶対に肝に命じて置かなければならない言葉と確信している。この言葉を言われてから明らかに施術での「触れ方」が変わったし効果の出方も変わった(勿論良い意味で)

「手作業」

昔から手作業が得意だったし、好きだった。自分では覚えていないけど、母曰く、5歳くらいの頃にヒヨコを描いた絵がありえないくらい上手だったらしい。その絵はおそらく母がどこかに保管してあるとかないとか。確かに常に何かを触って作業しているのは今でも好きかもしれない。小学生の頃もやっぱり絵が好きだった。他にも縫い物とか、料理とか、工作全般、習字。それこそ、ただ字を書くだけで楽しいと思ったりもする。写真に関しても、最初はカメラの操作が楽しくて始めた。建築学科の頃は模型作りが楽しかった。考えていることをエスキス帳にひたすら書き綴る行為も、何かに取り憑かれたように続けていた。改めて振り返ると、どれも全ては自分の欲求に対しての行為だった。

「手技療法」は「作業」ではない

時を経て、今この手で人様の身体に触れて整体することを生業とさせて頂いている。もちろん自身にとって何より楽しい仕事である事に疑いの余地はない。ただ、他と圧倒的に違うのは触れる対象が「人様の身体」であるという事。作業ではない。整体して、体良くなって、喜んでもらえる素敵な仕事だけど、絶対に忘れてはいけない事がある。触れる事で身体を悪くしてしまう可能性があるという事。時としてそれは「好転反応」と言える場合もあったかもしれない。上司や先輩はそう言って励ましたり慰めたりもしてくれたが、違和感だらけだった。結局その事のジャッジができるのは次に来てもらえた場合。でもそれを確認するためにまた来てもらうように無理に促すのも違和感。何かが違う。言ってしまえば勉強不足、経験不足なのだが、当時は何が正解で何が間違ってるかもわからず。

そんな思いを抱きながら日々目の前の施術をしながらも、常に会社の外にアンテナをビンビンに張りめぐらし、少しでも気になった情報にはどんどん突っ込んでいった。巷にはこれでもかという程に情報が溢れているが、実際に読み込んでみると結局同じような事を言い回しだけ変えて言ってるだけのモノも多い。そんな中でとある記事にたどり着いた。他の情報とは明らかに異質で至高さがあった。

その記事が以下です  (※シドーさんの了承いただいてます)

プロであるという事、学ぶという事、人様の体に触れるという事。などなど、「シドーさんから学びたい」ハートに火が着いちゃいました。この記事をきっかけにシドーさんのブログは全て読破×2周。もはやストーカー化寸前。それから程なくして施術を受ける為だけに埼玉から大阪までいき、今現在、月一回シドーさんのセミナーに参加させていただいている。(4月5月はコロナの影響で泣く泣く自粛)

「安易に触れるな」という言葉は、先にリンクで紹介させて頂いたブログ内に書かれた言葉ではなく、セミナー中にシドーさんがさらっと発した言葉。皮膚から骨までの階層の講義と「ただ触れる」事の練習の時だったと思う。今までの施術の仕方を変えるとかそういう以前の、そもそものもっと根本的な問題。触れる仕事で、ちゃんと触れてるのか。そこをすっ飛ばして目先の小手先のテクニックだけ覚えるより、ちゃんと触れるようにする事。自分の手を施術をする運動器としてだけではなく「感覚器」としても使えている事。その事が施術の中でどれだけ大切か。

なぜ学ぶのか。自分を信頼してくれる大切なお客様のお身体を預かっているという当たり前すぎる事実に対して鈍感になりすぎていないか?その一手が相手の人生をよくも悪くも変えてしまうのである。喜んでもらうために楽しく学ぶ大切さと同時に、絶対に悪くしてはならないという緊張感とプレッシャーを持って学ぶ事の重要さを今、学んでいる。

私が施術において「触れる」事に最大限の集中力を費やす所以はこういう事です。それまでも確かにそ「それなり」に触り方を気をつけてはいたが、今は違う。どの部位のどの階層に対してどうアプローチしているのか、それはなぜか、そこに明確な意図を持ってアプローチしている。おかげさまで以前のようながむしゃらな時間を費やさなくともお身体を良好に変化させていけるようになった。飽くなき探求と学びはまだまだ続きます。

※シドーさんとは、大阪心斎橋のマンション一室で整体サロンIasoを営んでいる超人気治療家です。

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